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20 2020

アート・スピーゲルマン/完全版 マウス──アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語

完全版マウス表紙

「飛躍しすぎかもしれないけど、
 もし両親といっしょにアウシュヴィッツにいることができたなら、
 彼らがどういう体験をしたかが本当にわかるだろうなって、
 どういうわけか思うことがあるんだ。
 たぶん、ぼくが彼らよりも楽な人生を送ってきてることへの罪悪感かもしれないけど。
 あーあ。
 ぼくのどんな悪夢よりも、もっとすさまじかった現実を再現しようとするなんて、
 とても無理だという気がするよ。
 しかもそれをマンガにするなんて!ぼくの能力以上のことをやっているんじゃないか。
 もうすべて忘れてしまうべきなのかもしれない。
 とても理解できないし、絵に描けないようなことがたくさんあるんだ。
 つまり現実はマンガにするには複雑すぎるのさ。
 ずいぶん省いたり歪めたりしなくちゃならないし」

「正直に描き続ければいいのよ。あなた」


30以上の言語に翻訳された名著
ピューリッツァー賞を受賞した最初のグラフィック・ノヴェル


本書は、マンガ家アート・スピーゲルマンの代表作『マウス』と『マウス II』を一体化させ、翻訳に改訂を施した“完全版"。

ホロコーストのユダヤ人生存者ヴラデックの体験談を、息子のアート・スピーゲルマンがマンガに書き起こした傑作。独自の手法と視点で、これまでに語られてこなかった現実を伝え、世界に衝撃を与えた。本書の一番の特徴は、ユダヤ人をネズミ(=マウス)、ドイツ人をネコ、ポーランド人をブタ、アメリカ人をイヌとして描いていることだ。斬新かつ親しみやすいアプローチで、読者をホロコーストの真実へと引き込んでいく。

語り手の父ヴラデックはポーランド出身。大戦後は妻とともにニューヨークに移住した。第1部では、ヴラデックの青年時代から結婚、過酷な逃亡生活を経て、ナチの手に落ちアウシュヴィッツに収容されるまで。第2部では、アウシュヴィッツでの悲惨な体験、解放、そして故郷ソスノヴェツへの帰還までが綴られている。全編をとおして、著者が父の体験談を聞くニューヨークでの場面が織り込まれている。それにより、生存によってもたらされた罪悪感を背景に、いつまでも消えない恐怖と闘うヴラデックのその後と、両親がホロコーストで負ったトラウマが、息子にどのような影響を及ぼしたのかまでを描ききっている。また、本書の第1部である『マウス』発売後の予想外の反響に、アート・スピーゲルマンが心のバランスを崩した様子も第2部に盛り込まれている。

ひとり、またひとりと家族が減っていく悲しさ、徐々に普段の生活が崩壊していくやるせなさ、迫害、飢餓、虐待、死……言葉ではなく視覚に訴えるグラフィック・ノベルだからこその恐ろしさが伝わる。全人類必読の「ある父親の記憶」。

「『マウス』はスピーゲルマンの父親がホロコーストで体験したことの記録──戦争前のポーランドでの青春時代と結婚、そしてアウシュヴィッツへの連行。すべてのコマが父の話に基づいたもので構成されている。ありのままかつ赤裸々に語られた生存者の物語。ホロコーストの恐ろしさは──原爆と同様に──実際に体験した者でないと想像もできないとされている。だが、スピーゲルマンは、その概念を覆した」──インディペンデント紙

「スピーゲルマンはナチをネコ、ユダヤ人をネズミ、ポーランド人をブタ、アメリカ人をイヌにして描いた。どれもおそろしく人間的だ」──タイムズ紙

「実在する家族の壮絶なサバイバル、間一髪の脱出、そして収容……多くの人が忘れてしまいたいと願う経験や感情を巧みに描いている。生死に直面する状況に追い込まれたとき、信頼や裏切りは前例のない次元へと変化する。イソップ物語やオーウェルの作品などで、最終的に衝撃を与え共感を呼ぶこの要素が詳細に記録されている。さらに、非常に完成度が高く、力強く躍動的で、感傷に浸ることのないアートワークは効果的だ」──タイムアウト紙


◆収録作品

1986年01月:Maus: A Survivor's Tale #1
1991年11月:Maus: A Survivor's Tale #2


◆My Father Bleeds History
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが組織的にユダヤ人の大量虐殺を行った『ホロコースト』を、ホロコーストを経験し生還したヴラデック・スピーゲルマン……作者アート・スピーゲルマンの父親の証言をもとに新しい視点から描いたことで大きな話題となった名作グラフィックノベル、『マウス』の日本語版が“完全版”として刊行されました!!

実は本作『マウス』は過去にも日本語版が小野耕世氏の翻訳で晶文社から1991年に1巻、そして1994年に2巻が刊行されていたのですが、晶文社が日本語版刊行のための契約更新を拒んだ事で増刷はなされず絶版状態に。現在はなかなかのプレミアがついてしまっていました。
絶版の邦訳タイトルの中ではかなり評価の高い作品だったので、常々読んでみたいとは思ってはいたものの、その入手困難さから半ば諦めかけていたのですが……昨年9月に『ComicStreet(外漫街)』というサイトにて、小野耕世氏が執筆しているコラムの中で突然の完全版の邦訳刊行のアナウンスが!!

『アメリカン・オリジナルとしてのコミックブックとはなにか | ComicStreet(外漫街)』より。
晶文社から私の訳で出ていたアート・スピーゲルマン作『マウス』および『マウスⅡ』は、晶文社が契約の更新を拒んだため、もう十数年も絶版状態にあり、古書価が非常に高くなっていた。アメリカでは、ⅠとⅡを合冊した『マウス』全1冊完全版が出ているが、それがようやくパン・ローリング社という『マウス』にほれこんだ出版社のおかげで、私の改訳によって出ることになった。しかし、スピーゲルマン側が細部のデザインなどにこだわるので、刊行は来年の1月になりそうだ。

旧版に手をいれながら、改めてスピーゲルマンの『マウス』は、おおげさに言えば、世界のマンガ史を変えた画期的な作品なのだったと、思い返している。その内容は、少しも古びていないどころか、なおも、人間とは、国家とは、歴史とはいったいなんだろうか―と、改めて思いおこすことになってしまう。出版社の編集担当の女性も「読み返して、驚きをますます深くしています」と、ゲラ刷りを読みながら感想を伝えてきた。いまでも世代を越えて読み継がれている作品なのは、まちがいない。


引用した文中には(2020年)1月発売とあるものの、実際には延期を重ねて2020年5月18日にようやく発売と相成ったわけですが、兎にも角にも入手困難だった名作の邦訳コミックが同じ翻訳者によって訳に改訂も加えられ、全2巻を1冊に纏めたバージョンで刊行されたのは嬉しいの一言!!
前置きはこのくらいにして、その内容を紹介していきます。

***

本作は前述した通り作者であるアート・スピーゲルマン(アーティ)が、ユダヤ人である自分自身の父親、ヴラデック・スピーゲルマンのポーランド時代と、彼の戦争体験をマンガにしたいと思い取材する現代のパートと、ヴラデックの回想が語られる過去のパートが交互に描かれていく構成になっています。
特徴的なのは人間を動物に置き換えているという部分で、本作ではユダヤ人をネズミポーランド人をブタに、ナチス・ドイツ人はネコアメリカ人はイヌという風に描かれてます。
これは人間の姿で描くと実在の人物を本人に似せる必要性が出てくるという事と、背景の考証をより詳細に描く必要が出てしまい写実的な作風になるため、それよりも動物のキャラクターにする事で物語の本質を伝えやすくするため、そして自由な表現にしやすくしたからだとか。

アンジャという女性と出会い婚約を交わし、彼女の父親の融資で工場経営に携わり、第一子となる長男のリシュウが生まれるなど、人生が順風満帆に進んでいるかのように思えたヴラデック。
しかし1939年に召集された事で家族と引き裂かれ、しかもナチ軍に敗北し捕虜となってからは過酷な強制労働、そして虐待、虐殺の光景を目にするなど、悪夢のような展開が続いていきます。

ただヴラデックはこれでなかなかしたたかで、家族の友人となんとか連絡を取り、道中でもユダヤ人であることを隠しポーランド人であるかのように振る舞って人の心に取り入って家族の元に戻ってくるなど、有事の際に生き残る能力に非常に長けていたのがエピソードとして面白かったりする。
ヴラデック自身、世渡り上手な自分の事を自分で持ち上げながら語っているしね。題材が題材なだけに暗い物語ではあるんですが、どこかほんのりユーモラスな雰囲気がちょくちょく含まれているのも本作の魅力の一つだと思う。

いつでもわしらは飢えていた

しかしホロコーストは日を追うごとに過激さを増していき、家族全員で生き残ることがどんどん困難になっていく。
家族や親戚、そして逃避行の中で出会った人があまりにあっさりと死んだり殺されていく……「子どもたちといっしょに自殺した」「二度と会わなかった」と、ヴラデックの口から淡々と語られるのがこの時代の異常さを物語っています。
ナチスの蛮行もこの中で色々言及されるのですが、「生活のために闇商売を行っていたユダヤ人を絞殺し、1週間もの間道に吊るしていた」「兵士が小さい子供の足を持って壁に叩きつけて殺した」などといったものが数多く飛び出し、実際にその光景を拝んだ者たちの証言だからこそ生々しく伝わってくる。
ユダヤ人同士でも自分が助かるために本来仲間であるユダヤ人を密告で売るため、信頼関係なんてものはすぐに崩壊していく。しかも密告した側も後でナチスに殺されるという地獄……。

第2部でアウシュビッツにヴラデックと妻アンジャが収容されてからのエピソードはさらに壮絶。
衛兵がユダヤ人の帽子を投げて取って行かせ、逃亡しようとしたという理由をでっち上げて射殺。
ドイツ人の囚人でありながらユダヤ人として扱われ、衛兵に殴る蹴るの暴行を加えられて死亡する人。
ハンガリーから連れてこられたユダヤ人たちは大きな穴に粗雑に放り込まれ、その上からガソリンをかけられて一気に大勢殺されたなど、凄まじい話が次々に出てくる。

そんな人を人として扱わない世界でヴラデックは、カポー(監視人)に英語を教えてあげた事で多少は特別扱いを受けられたり、靴の修理方法の技術を持っていた事で収容所の靴職人としての立場も得て衛兵からソーセージを貰えていたりと、まさに「芸は身を助ける」を地で行く生活を送っていたのがなかなかにスゴい。
もちろん日に日に状況は変わっていくため、この後は今以上に人間の尊厳を完全に無視した生活が待ち受けているのですが……全部書くとアレなのでぜひ本編で。

ところかまわずガソリンを

◆作中に登場する関連用語の解説リンク
本作には他の邦訳アメコミにあるような用語解説ページといったものは用意されていないため、自分用にまとめ。

【Pan; 完全版 マウス──アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語 特設ページ】
【「ユダヤ人の歴史—迫害の克服と信仰の保持—」 黒川知文先生(ユダヤ教編) | 宗教情報センター】
【P.15 ルドルフ・ヴァレンティノ】
【P.28 コミュニスト(共産主義)】
【P.78 ラミー】
【P.84 ゲットー】
【P.85 シオニスト】
【P.88 アウシュヴィッツの焼きがま】
【P.92 ゲシュタポ】
【P.94 ユダヤ人委員会】
【P.101 地球惑星の囚人(Prisoner on the Hell Planet)が掲載されたリーフ】
【P.108 ユダヤ人評議会】
【P.109 SS】
【P.133 カリカチュア】
【P.135 ウォルト・ディズニー】
【P.152 イディッシュ語】
【P.171 反ユダヤ主義】
【P.171 ドレフュス事件】
【P.176 チュクローンB(ツィクロンB)】
【P.178 サンカ(ノンカフェインコーヒー)】
【P.180 コンドミニアム】
【P.238 スペシャルK(ケロッグの日本未発売シリアル)】
【P.251 チフス】
【P.293 ジプシー占い】

◆感想
現在のヴラデックはそもそも善人とは言い難く、ひどく神経質で偏屈な性格なのもあって、後妻のマーラも彼の言動や行動にはひどくうんざりしています。
作中でも他ならぬアーティ自身が父の事を「偏見をもって言われるケチなユダヤ人のカリカチュアそのもの」と指摘していたり。
本作はホロコーストを題材にしたコミックですが、一方で現代パートでのあまり上手くいっていないアートとヴラデックの親子関係母親であるアンジャが遺書もなく1968年に自殺したというエピソード、後妻マーラがヴラデックの性格についていけずすれ違いを続けているという状況も読み応えがあります。
これらが決して無駄なパートではなく、大本の原因を辿っていくと父ヴラデックが経験したホロコーストに行き着くという構成がまた上手い。

あの悲惨過ぎる状況を生き抜けたのはヴラデックが元来持ち合わせていた技術と能力、そしてこのしたたかさがあったからというのは否定できないと思う。
もしヴラデックが他人のために自分を犠牲にできる善人……というか『お人好し』であったとしたら、間違いなくあの時代に死んでいただろうから。

乞食みたいな生活をしている

物語終盤、車の中でヴラデックの話を聞く途中でとある黒人ヒッチハイカーを乗せてやる下りがあるのですが、その時に彼が言い放った言葉は衝撃の一言。
でも、ラストシーンでのヴラデックのセリフ。ホロコーストから生還してもそれで終わりではなく、あの経験は永遠に彼の心に傷を負わせ続け、彼の人生を支配し続けていたのだと気付かされる、非常に苦々しい終わり方で強く印象に残りました。
過去の凄惨な体験の所為で現在のヴラデックの性格が形作られ、充分な資産があるにも関わらず異常な倹約家に変わったのだとしたら……。

『マウス』は重い題材をテーマにしたノンフィクションコミックではありますが、手に取るとグイグイ読み進めてしまう力のある傑作です。
本レビューで少しでも興味が湧いてくれたのであれば、是非とも一度読んでみてもらいたい一作でした。オススメ。
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